2020年3月31日更新

「西国三十三所観音巡礼」~日本の聖地巡礼はここから始まった~

西国三十三所観音巡礼 日本遺産

最近、若い人たちの間では、アニメの舞台となった場所を訪れる「聖地巡礼」がブームになっているようですが、「西国三十三所観音巡礼」は、聖地巡礼の起源といってもいいでしょう。

今回は「西国三十三所観音巡礼」についてご紹介します。

  1. 目次
  2. 1300年続く終活の旅
  3. 花山天皇が広めた西国巡礼
  4. 巡礼の場所が「33カ所」選ばれた理由
  5. 山伏から庶民へ
  6. 西国三十三所観音巡礼「お参りの方法」

1300年続く終活の旅

西国三十三所観音巡礼(さいごく さんじゅうさんしょ かんのん じゅんれい)とは、近畿二府五県(大阪・京都・奈良・和歌山・兵庫・滋賀・岐阜)に点在する33カ所の観音信仰の霊場(れいじょう=信仰の対象となる場所)を参拝してまわる事を指します。

霊場を札所(ふだしょ)として巡礼する風習は、お遍路さんで有名な「四国巡礼」や「坂東三十三観音巡礼」などいくつもありますが、「西国三十三所観音巡礼」は日本で最も歴史がある巡礼とされています。

熊野古道

令和元年(2019年)、文化庁は「西国三十三所観音巡礼」を、1300年続く日本の終活の旅として日本遺産の一つに認定しました。
日本遺産とは、「地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化や伝統を伝えるもの」に対し、日本の文化庁が認定するものです。

花山天皇が広めた西国巡礼

「西国三十三所観音巡礼」の始まりは、日本の第65代天皇である花山天皇(かざんてんのう:968年生〜1008年没)の観音巡礼だと言われています。

花山天皇は、叔父である円融(えんゆう)天皇の譲位により17歳の若さで天皇となりますが、時の権力者である藤原兼家によりわずか2年で退位させられます。また寵愛した藤原忯子(ふじわらのしし)が妊娠中に亡くなるなど悲しい出来事が続いたことから、徳道上人(とくどうしょうにん)の伝承をもとに西国巡礼を始めます。

徳道上人の伝承とは

長谷寺 徳道上人

徳道上人は、奈良にある長谷寺を創立したお坊さんです。
この徳道上人は、病のため62歳で亡くなりますが、冥土(めいど=死者の霊魂が行く暗黒の世界)の入口で、閻魔大王(えんまだいおう=死者の生前の罪を裁く神)に会い、お説教をされてしまいます。

閻魔大王のお説教の内容は
「生前の罪により地獄にいく者があまりにも多すぎる。日本の33の観音霊場を巡礼すれば、これまでの罪を消滅させる功徳(くどく=御利益のこと)があるので、お前(徳道上人のこと)は現世に戻り、観音菩薩の慈悲の心を布教し、人々を救え」
というものです。

このお告げを受けた徳道上人は、起請文(きしょうもん=神仏に誓う文書)と33の宝印(ほういん=仏教の特徴を表す印)を授かり現世に戻されてしまいます。

冥土から現世に戻された徳道上人は、閻魔大王から託された法印をもとに、33の観音霊場(れいじょう=信仰の対象となる場所)を定め布教しますが、人々の信用を得られず、33の観音巡礼は普及しませんでした。

そこで徳道上人は気が熟すのを待つこととし、閻魔大王から預かった法印を兵庫県宝塚市にある「中山寺(なかやまでら)」の石櫃(いしびつ=石の箱)に納めました。
その後、徳道上人は80歳で亡くなります。

那智山で33所観音巡礼の復興を告げられた花山天皇

那智大社 那智の滝

徳道上人が亡くなった270年後、花山天皇が和歌山県にある「那智山(なちさん)」にこもって祈りを捧げていたところ、※熊野権現(くまのごんげん)が現れ、徳道上人が定めた33所霊場を復興するようお告げがあります。

このお告げを受けた花山天皇は、中山寺の法印を探し出し、33所霊場を巡礼したことから、人々に信仰が広まっていったと伝わります。

※熊野権現とは
熊野三山に祀られる神様のことで、八百万の神々は仏の化身であるとする本地垂迹思想(ほんちすいじゃくしそう)のもとで権現(ごんげん)と呼ばれるようになる。

※本地垂迹思想とは
仏教が興隆した時期に発生した神仏習合の思想で、日本に伝わる八百万の神々は、仏の化身であり、本地の仏が人々を救済するために、諸神の姿を借りて現れるとされる思想。

巡礼の場所が「33カ所」選ばれた理由

観音信仰において、33という数字は特別の数字です。
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第25(観音経)」によると、観音菩薩は時と場所に応じて姿を変えて人々を救いに来てくれますが、その姿が33あると説かれています。
この教えに基づき、西国三十三所の観音霊場を巡拝すると、現世で犯したあらゆる罪が消滅して極楽往生できると信じられているのです。

山伏から庶民へ

もともと巡礼を行っていたのは山伏や一般の僧侶で、宗教者の集団が、三十三所巡礼の基礎をきづきましたが、これらの僧侶が庶民を導く形で巡礼を普及していったと考えられています。

巡礼を導く僧侶たちは、庶民に勧進(かんじん=人々に仏道をすすめながら寄付を集めること)を募り、集めた寄付によって、寺社を新たに造営したり補修を行うなど、勧進聖(かんじんひじり)としてお寺を経済的に支えていました。

勧進聖が定着する15世紀になると、人々が巡礼をする際の宿坊(しゅくぼう=参拝者が宿泊できるお寺の宿)が整えられ、もっぱら修行僧や修験者のものであった西国三十三所巡礼は人々の間にも定着してきます。

西国三十三所観音巡礼「お参りの方法」

33カ所どこから行ってもOK

33カ所の霊場は、一般的に札所(ふだしょ)と言われます。
かつて巡礼者は、観音菩薩との結縁を願って氏名や所在地を書いた木製や銅製の札を、お寺のお堂に釘で打ち付けていたことに由来します。

1番札所から33番札所まで順位が決まっていますが、実はこの札所の順番、今と昔では異なります。

現在の第1番札所は那智山にある青岸渡寺(せいがんとじ)ですが、鎌倉時代までは1番が奈良の長谷寺、2番が岡寺、33番が京都の三室戸寺でした。

前章でも述べましたが、もともとは京都や奈良の修行僧が巡礼をしていたことから、遠い所を先にまわり、近場は後に残していたようです。

ところが鎌倉時代以降、伊勢詣でが盛んになり、関東から参拝する人が非常に多くなります。そこで伊勢から熊野古道を通って那智を1番ににお参りする形ができあがりました。

従って巡礼は、興味のあるお寺や行きたいお寺、どこから始めてもOKです。
33カ所におよぶ寺社を一気にまわるのはとても大変です。何回かにわたり少しずつ巡礼の旅を完成させるのも楽しみです。

仏様をもてなすお線香

香でもてなす線香

本堂ではお線香を3本立てますが、これにはいくつかの説があるようです。
「仏・法・僧」の三宝に捧げる説
「現在・過去・未来」に捧げる説
「仏・ご先祖・自分」に捧げる説
などがあります。
宗派によっては1本または2本立てる場合もあるようです。
お祈りの間、仏様を香でもてなし、徳をいただくための作法とされています。

観音様の知恵をさずかるローソク(灯明)

知恵をさずかる灯明

なお灯明(とうみょう=ローソク)を1本お供えしますが、これは仏様の知恵をいただくという意味があります。
ここで注意点は一つ。他のロウソクから火をもらうのはマナー違反です。必ず種火から火を灯しましょう。
というのも、他のロウソクから火をもらう事は、他人から知恵を奪い取ることになるとともに、他人の業(悪行)をもらってしまうことにもなるからです。

参拝の後は、札所に行って写経をし、お布施として納経料を納め、御朱印をいただきましょう。

西国三十三所観音巡礼のそれぞれの札所については、府県ごとにご紹介します。

京都の札所(11カ所)はこちらをクリック
奈良の札所(4カ所)はこちらをクリック
和歌山の札所(3カ所)はこちらをクリック
大阪の札所(4カ所)はこちらをクリック
兵庫の札所(4カ所)はこちらをクリック
滋賀の札所(6カ所)はこちらをクリック
岐阜の札所(1か所)はこちらをクリック