2020年2月20日更新

鎌倉・常栄寺(じょうえいじ)-日蓮を救った「ぼたもち」

ぼたもち寺

 常栄寺って?とそのお寺を知る人はあまりいないのではないでしょうか。鎌倉駅より徒歩8分、鎌倉七福神の一つである本覚寺の北東に位置する常栄寺は、ぼたもち寺の愛称で親しまれています。
 その由来は鎌倉時代に遡ります。

  1. 目次
  2. 頼朝が作った「桟敷台」のふもとにあるお寺
  3. ぼたもち寺と呼ばれる由縁
  4. お寺の名前は桟敷の尼の「法名」が由来
  5. 常栄寺は「日詔(にっしょう)」が建てたお坊さんの学校
  6. お寺を再興したのは「日祐尼(にちゆうに)」

頼朝が作った「桟敷台」のふもとにあるお寺

 そもそもこの地の山上に、源頼朝が由比ヶ浜における千羽鶴の放鳥を遠望するために桟敷台(展望台)を作りました。

桟敷台

 その後、剃髪せずに髪を長くしたままの尼さんが庵を構えて住んでいたところ、「桟敷の尼」と呼ばれていました。

 この尼は鎌倉幕府の6代将軍である宗尊親王(むねたかしんのう)の近臣であった印東次郎左衛門尉(いんとうじろうざえもんのじ)祐信の妻で、夫婦ともに日蓮聖人に帰依(きえ)していました。

 ちなみに印東(いんとう)氏は現在の千葉県印旛郡のあたりを統治していた武士ですが、頼朝挙兵以降、御家人として代々鎌倉幕府に仕えた武士です。

ぼたもち寺と呼ばれる由縁

龍ノ口法難とは

 日蓮は、当時の仏教の教えが誤っているのでそれを正そうと「立正安国」を主張し続け、法華経に帰依するよう幕府に迫ったところ、様々な迫害を受けていましたが、1271年9月12日、日蓮は罪人として捉えられ、佐渡に流されることになってしまいます。
 これが世に言う日蓮の龍ノ口法難です。

桟敷の尼が日蓮に「ぼた餅」を差し入れたところ奇跡が

 途中、裸馬に乗せられて市中を引き回されていたときに、この地に住んでいた桟敷の尼が、日蓮聖人に「ごま」のぼた餅を捧げました。

 実はこの時、幕府が日蓮を佐渡に流すというのは建前で、龍ノ口(たつのくち)の刑場(現在の江ノ島付近)で斬殺するつもりでした。

 ところが、日蓮が刀の下に身を委ねたところ、とつぜん月光のような光が刀を構えた武士の目に射し込み、太刀を折り、警固の者も逃げ惑ったといいます。

 この不思議な現象の報告を受けた幕府は、日蓮の死罪をとりやめ、建て前通り佐渡に流しました。

頸つなぎの「ぼた餅」

 このように日蓮が龍ノ口法難をまぬがれた事を知った人々は、桟敷の尼より捧げられたぼた餅のおかげと考え「頸(くび)つなぎのぼたもち」といわれるようになりました。

 700年以上を経た現代においても毎年9月11日と12日の二日間は、境内にお祀りしている祖師像にごまの餅を供えると同時に来訪信者に「ぼた餅」が振る舞われます。

お寺の名前は桟敷の尼の「法名」が由来

 桟敷の尼は、1274年11月12日、88歳で亡くなりました。
 この尼の法名(戒名)は「妙常日栄」。常栄寺の名称の由来となっています。
 

桟敷の尼のお墓

常栄寺は「日詔(にっしょう)」が建てたお坊さんの学校

 常栄寺の創建は、桟敷の尼が亡くなって330年後、江戸時代となってからです。

日蓮宗の拠点として

 徳川幕府成立前の天正年間(1571〜1591)に、この地は妙本寺に寄進されています。
 その後1606年、妙本寺の住職であった日詔によって創建され、日蓮宗の重要な拠点となりました。

妙本寺

ぼたもち寺

鎌倉での布教活動

 もともとは常栄寺という名前ではなく、日蓮宗の学問所として創建され、宝篋堂壇林(ほうきょうどうだんりん)と名付けられました。
 壇林(だんりん)とは、お坊さんが学問修行をする道場の事です。当時、日詔は政治の中心地である鎌倉での布教活動にはげんでいました。

学問所は池上本門寺に移設

 日詔は後に池上本門寺14世となる人物ですが、この学問所(宝篋堂壇林)は1689年、日蓮宗の総本山である池上本門寺に移されています。

常栄寺 境内

お寺を再興したのは「日祐尼(にちゆうに)」

 その後、紀州徳川家の家老であった水野重良の娘で日蓮宗に帰依した日祐尼(にちゆうに)が、この霊場の史跡を訪れ、過ぎ去った歴史に思いをはせて、お寺を復活させました。

日佑尼 お墓

日祐尼 石碑