2020年3月17日更新

奈良・長谷寺~観音信仰の聖地~

長谷寺

観音信仰の聖地といえば、奈良県桜井市初瀬にある長谷寺。
真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)の総本山で、全国の末寺は3000箇所以上。信徒は300万人と言われ、多くの信仰を集めています。
今回は奈良の長谷寺についてご紹介します。

  1. 目次
  2. 「長谷寺(初瀬寺)詣で」は平安時代のトレンド
  3. 天武天皇の病気平癒のために発願された長谷寺
  4. 春日大社の神主が子供の病気平癒のお礼に建立した「登廊(のぼりろう)」
  5. 日本一大きな木造のご本尊
  6. 大洪水から人々を救った長谷観音
  7. 長谷寺の御利益といえば、「美」と「縁結び」
  8. 長谷寺でしか手に入らない「花守り」と「草餅」

「長谷寺(初瀬寺)詣で」は平安時代のトレンド

長谷寺 仁王門

近鉄大阪線、長谷寺駅より徒歩20分、門前町をぬけると仁王門が目の前に現れます。この門の奥には本堂をはじめ五重塔等50を超える大伽藍が建ち並びます。古くから奈良の大寺(たいじ)として知られ、60名の僧侶が在山し、朝夕の法要が行われています。

大阪・奈良方面と伊勢を結ぶ初瀬街道(はせかいどう)沿いに立地する長谷寺は、牡丹の名所として有名で、万葉集や源氏物語など多くの古典文学からも当時の人気ぶりが伺えますが、平安時代の観音信仰の高まりに伴い、宮廷の女性や貴族たちは、長谷寺を詣でる事を「初瀬詣で(はつせもうで)」とよび、一つのトレンド(流行)となっていました。

長谷寺 牡丹

平安時代から鎌倉時代にかけては飢餓や疫病の時代といってもいいでしょう。人々は飢えや天然痘などの感染症に苦しんでいました。そうした中で救世(くぜ)思想である観音信仰が人気を集めたのです。
救世思想とは、人々をその苦しみの中から救済し、悟りの境地へ導くことを指し、「救世」は観音菩薩そのものを指す言葉としても使われています。

天武天皇の病気平癒のために発願された長谷寺

長谷寺 銅版法華説相図

長谷寺の創建は686年。
奈良時代の僧である道明上人(どうみょうしょうにん)が、「銅板法華説相図(どうばんほっけせっそうず)」を初瀬山に安置したことに始まると伝わります。
「銅板法華説相図」とは、法華経に説かれる宝塔出現の光景が図相化されたものです。

銅板には三重宝塔(さんじゅうほうとう)を中心に、十万世界から集まった仏たちが描かれ、さらに「飛鳥で天下を治めた天武天皇の病気平癒の為に長谷の地に寺を建てたい」という道明上人の願いが319字の碑文として刻まれています。

道明上人のこの願いは50年後にかなえられます。
733年、聖武天皇の時代に、徳道上人(とくどうしょうにん)が近江国高嶋郡白蓮華谷(おうみこく たかしまごおり びゃくれんげたに=現在の滋賀県高島市あたり)の霊木で、ご本尊である十一面観音を造立し、ご本尊を祀るための正堂を建てて長谷寺としました。

この後、徳道上人は「西国三十三所観音霊場(さいごく さんじゅうさんしょ かんのんれいじょう)」巡拝の開祖として観音信仰を広めたことから、長谷寺は三十三所の根本霊場(こんぽんれいじょう)と呼ばれています。

長谷寺 徳道上人

春日大社の神主が子供の病気平癒のお礼に建立した「登廊(のぼりろう)」

長谷寺 登廊

「花のお寺」として有名な長谷寺ですが、登廊(のぼりろう)も見どころの一つです。
仁王門と山の中腹に建つ本堂までは300メートルの登廊(のぼりろう=階段)で結ばれており、399段に及ぶ登廊には屋根を支える円柱が建ち並び、天井には楕円形の灯篭が吊られています。

登廊は国の重要文化財にも指定され、山の斜面に建つ本堂や蔵王堂、繁屋、仁王門を三つの登廊が繋ぎます。
これらは山岳寺院の伽藍を形成する建築群として貴重な遺構となっています。

長谷寺 登廊2

この登廊は、1039年、春日大社の社司(しゃし=かんぬしの事)である中臣信清が子供の病気平癒のお礼として建立したと伝わりますが、度重なる火災により焼失してしまいます。
これを再興したのは1650年、徳川家光です。その後も火災に見舞われますが、都度、再興されてきました。

余談ですが、廊下の言葉の由来は、平安貴族の住宅様式からきています。
屋敷の中心となる建物を寝殿と呼び、その他の建物をつなぐための屋根のついた通路のことを廊と呼びました。

登廊(のぼりろう)を登りつめると、本堂にたどりつきます。

日本一大きな木造のご本尊

長谷寺 礼堂

本堂は1650年、徳川家光が再建したもので、正堂(しょうどう)、礼堂(らいどう)、外舞台(そとぶたい)を備えた仏教建築です。内陣にはご本尊である十一面観世音菩薩(じゅういちめん かんぜおん ぼさつ=重要文化財)が祀られています。

観世音菩薩は「人々の救いを求める声を聞き、願いを聞き入れる」という求道者の意味を持ちます。

長谷寺に現存する十一面観音像は、1538年(室町時代)に再興された御本尊です。
木造としては日本一大きな仏像で、高さ10.18メートル、右手に錫杖(しゃくじょう)と念珠(ねんじゅ)、左手には蓮華を挿した水瓶(すいびょう)を持ちます。この持物(じぶつ)のスタイルは「長谷寺式十一面観音」と呼ばれます。

錫杖(しゃくじょう)を持つ菩薩は、本来は地蔵菩薩のお姿で、観音菩薩が錫杖を持つのはとても珍しく他に例をみません。
そのため、長谷寺の観音菩薩は唯一無二であることから、長谷観音と呼ばれています。
参拝者はこの観音菩薩の足元にひざまづき、菩薩の足をなでながら祈りを捧げます。

「いくたびも参るこころ初瀬寺 山も誓いも深き谷川(花山法皇)」

百人一首に紹介される花山(かさん)法皇の歌です。
花山法皇は、叔父である円融(えんゆう)天皇の譲位により17歳の若さで天皇となりますが、時の権力者である藤原兼家によりわずか2年で退位させられます。また寵愛した藤原忯子(ふじわらのしし)が妊娠中に亡くなるなど悲しい出来事が続いたことから、徳道上人の伝承をもとに西国巡礼を始めます。
「西国三十三所巡礼」として現在でも継承されている巡礼の始まりは、この花山法皇(968年生〜1008年没)の観音巡礼だと言われています。

大洪水から人々を救った長谷観音

長谷寺 十一面観音菩薩立像

さて、徳道上人によって造立されたご本尊の由来をご紹介しましょう。

あるとき洪水で、高嶋郡白蓮華谷(たかしまごおり びゃくれんげたに=現在の滋賀県高島市あたり)に、高さ30メートルを超える楠(くすのき)の倒木が流れつき、村人がこの倒木で仏像を造ろうと木を切り取ったところ、家が焼け、多数の村人が流行病(はやりやまい)で亡くなったので、「これは木の祟り」だと、誰もこの木に近寄らなくなりました。

その後、たまたま村に来た大和国葛木の男がこれを聞き、この木を持ち帰り十一面観音像を作ろうと思い立ちますが、木が大きくて運べないので、後日、何人かの仲間を引き連れ運ぼうとしますが、重くて運べません。試しに縄をつけて曳いてみたところ、軽々と曳く事ができ、奈良県の当麻(たいま)まで倒木を運んできましたが、またしても祟りが起こり、その後100年ほどは初瀬川あたりに放置されていました。

この噂を聞いた徳道上人が倒木をもらい受け、7~8年の間、木に向かって祈祷(きとう)し続けた後、二人の仏師によって約8メートルの十一面観音を彫りあげ、長谷寺に安置したところ、大洪水はおさまり、人々を守る事ができました。

その後、長谷観音の霊験はあらたかで、中国までも利益を施したと伝わります。

長谷寺の御利益といえば、「美」と「縁結び」

さて、参拝者の誰もが気になるのはご利益。
女性の参拝客が多い長谷寺ですが、それもそのはず。
長谷寺の御利益は「美」と「縁結び」です。

「縁結び」にまつわる物語は「蜻蛉日記」や「源氏物語」など日本の古典に多数紹介されていますが、「お花の長谷寺」の基礎を作ったのは、遠く中国のお妃さま「馬頭夫人(めずぶにん)」です。
「美」と「縁結び」にまつわるエピソードをいくつかをご紹介しましょう。

馬頭夫人の願いを叶えた長谷観音

長谷寺 馬頭夫人のお宮

中国のお妃様であった馬頭夫人(めずぶにん)は、顔が長く鼻の形は馬に似ており、とても醜い容姿のお妃様でしたが、情が深く、奥ゆかしい心の持ち主で、僖宗(きそう)帝の寵愛を受けていました。
当然、他のお妃たちは、その様子を快く思いません。馬頭夫人を蹴落とすために、夫人の醜い姿を帝にさらすために、昼間に宴会を企画します。
馬頭夫人は、何とか宴会までに美しい容姿に生まれ変わりたいと医者に相談しますが、そんな薬はないと言われます。
そこで、道理にたけた仙人に相談をしたところ、日本の強力な法力を持つ観音様に祈願をする事を勧められます。この観音様こそが長谷観音だったのです。

馬頭夫人は仙人の教えを信じ、東方日本に向かって誠心誠意祈りを捧げたところ、七日目の夜、高貴な僧が手に持った瓶の香水を顔に注がれる夢を見ます。
翌朝、鏡を見ると端正で威厳のある美しい容姿に変わっており、帝の寵愛もますます深いものとなりました。
これはひとえに観音様のおかげであると喜んだ馬頭夫人は、祈願成就のお礼として、中国原産の牡丹の種を長谷寺に献上したというエピソードが伝承されています。

長谷寺を参詣して、「夫の愛情を取り戻した!」藤原道綱の母

長谷寺のご利益といえば、何と言っても縁結び。平安時代に書かれた「蜻蛉日記」や「百人一首」からも読み解けます。
「蜻蛉日記」は、平安時代の歌人でもある藤原道綱の母(ふじわらのみちつなのはは)が書いたものです。藤原兼家の妻の一人で、後に右大将となる道綱の母ですが、名前ははっきりしていません。
小倉百人一首では、右大将道綱母という名前で、句が選定されています。

百人一首 藤原道綱母

道綱の母の夫の官職は摂政(せっしょう)です。摂政とは、天皇に代わって執務を行う者を指し、時の政界ナンバー1の権力者と言っても過言ではないでしょう。

当時は一夫多妻性で夫が妻の家に通う「通い婚」が結婚の常識でした。夫の兼家も例外なく妻がたくさんおり、とても寂しい思いをしていた道綱母は、救いを求めて京都から奈良の長谷寺を参詣します。ところが帰りが大幅に遅れて夜道を心細く歩いていたところ、心配した兼家が宇治まで迎えに来てくれたのです。
これはもう長谷観音のご利益に違いないと、道綱母は「蜻蛉日記」に記しています。

長谷寺でしか手に入らない「花守り」と「草餅」

このように、古くから「美」と「縁結び」にご利益があるとされる長谷寺ですが、花のお寺にふさわしい御守りが用意されています。
「身体健全」「容姿端麗」「金運上昇」「縁結び」などにご利益がある牡丹をモチーフにした「花守り」です。赤、白、ピンク、黄色、水色などカラーバリエーションも豊富です。お土産にも喜ばれそうです。

私は足の悪い母に下記の御守りをお土産にしました。

長谷寺 御守り

ちなみに門前の名物は「草餅」とのこと。
古来より初瀬街道の宿場町として、旅人に草餅をふるまっていた頃からの名物だとか。ぜひご試食してみてくださいね。